www.flickr.com
golighly_inc's items
Go to golighly_inc's photostream
You need to upgrade your Flash Player This is replaced by the Flash content. Place your alternate content here and users without the Flash plugin or with Javascript turned off will see this. Content here allows you to leave out noscript tags. Include a link to bypass the detection if you wish.


第1回映像メディア学サミットLOOP-01 Share

2010年4月3日2:32 pm

3月はほんとうに慌ただしかった!後半、タフなイベントが2本あって、てんてこまいでした(ブログを更新できなかった言い訳)。そのうちのひとつが3月27日(土)の第1回映像メディア学サミットL00P-01。東京藝術大学大学院映像研究科の主催で行われた国際シンポジウムで、パネリストは、第一部の「結束点としての人間」では、ジェフリー・ショーさん、廣瀬通孝さん、王俊傑さん、第二部の「工場としての学びの場」では、大友良英さん、諏訪敦彦さん。モデレータは両方とも研究科長の藤幡正樹さんでした。それぞれの方面で、自分の信念や方法をまっしぐらに突き進み、もしかしたら同じ分野の人からはちょっと(もしかしたら相当)変わっているように見えているけれど、しかし冷静に考えると、そのやり方は必然で、まったくもって王道中の王道だというすごい面々です。このシンポジウムはいわば、映像研究科が何をテーマにしているか、何を社会に問うているのかをシンポジウムを通して発信するもの。弊社はマネージメントをさせていただきました。

デザインは大岡寛典

フライヤーのデザインは大岡寛典さん

特にパート1のヴァーチャルリアリティ(VR)とリアルの話、技術の発達によって、私たちの感覚、認識は根底のところで変わってきていること、VRの開発の黎明期では、仮想空間は現実とは異なる、対立するものだったのが、いまや現実の空間のなかで別の現実となっていること。これは、2月にトーキョーワンダーサイトで開催されていた「DOUBLE VISION」という展覧会と根底のところで響き合っています。王俊傑さんの仕事はこの展覧会へとつながっているような作品です。

また、パート2では、既成の文法や方法論にとらわれない子供たちとの共同制作によって開かれた制作のプラットフォームの可能性が語られました。諏訪さんは造形大学の学長、藤幡さんは新しい学科を創設、大友さんは大学には属さない。その立場の違いが触発しあうようなディスカッションになりました。このパートを構成するにあたってキーとなるアイデアになったのは、シンポジウムのなかで藤幡さんが引用したようにヴィレム・フルッサーの『デザインの小さな哲学』(鹿島出版界)のなかの「製作の場」でした。

私はこれまでシンポジウムの企画を何度もして来たし、それはそれは数えきれないほど聴衆となってきたし、そんなに多くはないですがパネリストとして招かれたこともあります。でも、そのうち成功したシンポジウムってどれだけあるでしょう。シンポジウムは、テーマとパネリストと日時と会場をおさえておけば、後はなるようになる、って思われてませんかね? きちんと準備したほうがいいに決まっているけど、きちんと準備するってどういうことでしょうか? 展覧会は準備の時間がなかったとは言い訳できませんが、関連イベントして開催されるシンポジウムは言い訳したりしてませんかね? 最近はアートマネージメントの本がたくさん出てるので、どうやって展覧会を作ったらいいのかっていうことについては指南書をいくらでも見つけることができます。でも、シンポジウムって簡単だと思われているのか、そういったものを見つけるのは逆に難しいのではないでしょうか? 時々、パネリストが壇上で「今日は何をしゃべったらいいのかよくわかってないんですが」と笑いながら、軽く企画者か司会者を責めながら、聴衆にはエクスキューズする場面がときどきありますが、あれは一体何なんでしょう。

私はシンポジウムの台本っていうのが実は嫌いで、司会者の台詞が書いてあってとか、自分ではそんなの絶対作りたくないのですが(笑)、進行表はとても大事です。その進行表がないってことがたまにあるのです。進行表はパネリストだけでなく、映像や音響、照明、記録のスタッフにとってもとても大事です。(そして、それが出演者、スタッフに共有されているかどうかは聴衆には丸わかりです)シンポジウムは、ライブパフォーマンスです。アドリブ、即興、突発的な出来事が多発します。猛獣たちの衝突があればあるほど、ライブパフォーマンスとしてはドキドキするわけで、いくらきらびやかな面々をそろえても、さもその人が言いそうなこと、隣のパネリストの顔色を伺ったようなことしか言わない予定調和なシンポジウムなんて退屈すぎます。でも、たいていは退屈すぎるのです。シンポジウムはトークセッションじゃないので、話の道筋と行き先がないと。ときどき行き先とは別のところにたどり着いてしまうことはありますが、そこが美しいところならそれもまたよしです。いや、美しくないところかもしれないけれど、何か希望や可能性のかけらを感じることができれば、そして語りあうことで発見されたものを共有することができたら、そのシンポジウムはよかったって言えるのではないでしょうか。

でも、ものすごく準備万端整えたからってうまくいくとは限らないのですよね。そこは生ものだから。今回、「たいていのシンポジウムは面白くない!」あ、いえ、「シンポジウムは難しい!」ということを前提に、気をぬかないで作ったつもりです。これだけのパネリストに来ていただいたせいか、当日は満員立ち見御礼でした。また、面白かった、もっと聞いていたかったという感想も多くいただきました(盛り込みすぎってことも)。ご出演いただいた方々、お越しいただいた方々、スタッフの方々、ありがとうございました。そして、花粉症のところ、2つのハードなセッションをドライブしきった藤幡さん、お疲れさまでした!

それから、今回のシンポジウムでは3台カメラを使ってUstreamしたこともひとつの試みでした。http://www.ustream.tv/channel/loop-001 カメラのセッティング、撮影、同時編集、配信、twitterと一人何役もこなしていただいた岡本彰生さん、ありがとうございました。その前の週に別のイベントでUstして、その可能性を大いに感じていたところ、岡本さんからもぜひやってみたいと言っていただき、実現しました。ここまでのことが、優秀なスタッフがいれば、高価な機材や特別な回線など必要なくできてしまう時代になりました。世の中のUst普及、特にdommune以降、ネット中継のスタンダードは大きく変わりましたね。しかも、まだまだのりしろあると思うので、今後どういうことができるのか本当に楽しみです。(翌週4/1にあった口ロロのライブでは、Ustの可能性の開拓、そしてUstとライブの違いについてよく考えられた試みがわんさか行われていました。こちらの公式Ustも岡本さんが担当)ほんと、ライブとUstとtwitterとskype(Ustだとタイムラグがあるので)で、けっこう面白いことできるはず。だけど正直言って、やってるほうは、かなり疲れるんです。多次元のなかを複数の役割で時間の進行につきそっていくわけで。最初、これは技術のほうに自分の身体と感覚が順応するのが早いか、新しいデバイスやインターフェイスが登場するのとどっちが先かと気が遠くなってたのですが、この錯乱状態をしばらく楽しむというのがかえってオツかもしれません。パラレルなリアルを生きる複数の私をアバターと呼んだとき、そこにはもう旧来の意味での「現実」はないのかもしれません。

また、シンポジウム終了後、twitterでさまざまな感想をいただき、それに対するパネリストの応酬もありました。会場でのアンケートや質疑応答ではなく、こういう形でリアクションが手にとるようなダイレクトさで返ってくることも面白かったことです。

このシンポジウムは今後継続されていくので、どうぞご期待ください。

- fukuda

オーストラリアのメディアアート Share

2010年1月21日10:26 am

オーストラリア大使館のウェブサイトに、福田が寄稿したオーストラリアのメディアアートのフェスティバルやアーティスト・イニシアチブについてのレポートが掲載されました。昨年の5月末に調査したときのまとめです。約10日間の日程で、シドニー、メルボルン、アデレード、ブリスベンの25カ所のスペース、関係のオフィスをおたずねしました。そして、今年は、このときの調査をもとに、オーストラリアのアーティストを招いた企画をすすめています。

オーストラリアって実はメディアアートが盛んなのです。オーストラリア出身のアーティストは世界中で活躍していますし、アーティスト・イニシアチブもフェスティバルもいっぱいあります。でも、メディアアートを専門にしているアートセンターも美術館もないのです。ハコはないのに、人も組織もイベントも元気。この謎に迫ってみました。最後に紹介しているRealTimeというフリーマガジンは日本ではあまり知られていませんが、内容が充実していてオススメです。ネットでも記事が読めます。

- fukuda