www.flickr.com
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chronicle

2013年

5月

○『路傍の光班ー小津安二郎の時代と現代』
著者:岩井成昭
発行:P3 art and environment
(編集)

4月

○「アートアワードトーキョー丸の内2013」
会場:行幸地下ギャラリー(千代田区丸の内)
主催:アートアワードトーキョー丸の内実行委員会
特別協賛:三菱地所
http://www.artawardtokyo.jp/2013/

○ 『東京綜合写真専門学校 学校案内 2014年度版』
発行:東京綜合写真専門学校学校
(編集)

3月

○ Res Artis総会2012東京大会報告書
発行:レズ・アルティス総会2012東京大会日本実行委員会
(編集協力)

○『アートの課題 多文化社会と新しいアートセンターの活動 in the AIR 』
発行:トーキョーワンダーサイト
(カタログ編集)
http://www.tokyo-ws.org/archive/2012/10/2012in-the-air-2.shtml

1月

○ BCCKS golightly書店オープン
http://bccks.jp/store/87386

2012年

12月

○現代映像プロデュース論 2012-2013
公開:東京藝術大学大学院映像研究科特設サイト
(レクチャー制作、運営、記録編集)
http://animation.geidai.ac.jp/pd2012-2013/

○写真集『where we are』(BCCKS)
撮影:Sachiko M
(編集、共同発行(teamsachikom))
http://bccks.jp/bcck/109709/info

10月

○「アートと音楽 ーあらたな共感覚をもとめて」展
大友良英リミテッド・アンサンブルズ インスタレーション作品「with “without records”」
会場/主催:東京都現代美術館
(プロダクションマネジメント)
http://www.mot-art-museum.jp/music/

○東京藝術大学開学125周年記念「藝大アーツ・サミット 2012」
会場:浅草ビューホテル
主催:東京藝術大学
(国際シンポジウム制作、運営、USTREAM配信、記録映像・報告書編集(PDF/ePub/Kindle版))
http://pcd.geidai.ac.jp/artssummit2012/

8月

○「Make: Ogaki Meeting 2012」
会場:ソフトピアジャパンセンタービル(岐阜県大垣市)
主催:Make: Ogaki Meeting実行委員会
(展覧会制作マネージメント、運営など)
http://makeogakimtg.org/

○ Tokyo Sonic Art Award
主催:東京都、東京都現代美術館、東京文化発信プロジェクト室
(公募展事務局( P3 art and environment と共同))

7月

○ にゅ~盆踊り
会場:池袋駅西口公園
主催:あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター)
(USTREAM配信)
http://www.owlspot.jp/special/12_newbonodori/

○ 工場ハックツアー サマースクール
会場:モノ:ファクトリー(株式会社ナカダイ 前橋支店)
主催:モノ:ファクトリー
共催: Make: Japan(株式会社オライリー・ジャパン)
(企画制作、運営)
http://monofactory.nakadai.co.jp/events/vacation2012/hack/

6月

○「Maker Conference Tokyo 2012」
会場:日本科学未来館
主催:株式会社オライリー・ジャパン
(国際シンポジウム制作、運営、司会)
http://makezine.jp/event/mct2012/

5月

○「アートアワードトーキョー丸の内2012」
会場:行幸地下ギャラリー(千代田区丸の内)
主催:アートアワードトーキョー丸の内実行委員会
特別協賛:三菱地所
(事務局運営)
http://www.artawardtokyo.jp/2012/

3月

○現代映像プロデュース論 2011
公開:東京藝術大学大学院映像研究科特設サイト
(記録編集)
http://c15v7i0v.securesites.net/pd2011/archive.html

○ 工場ハックツアー
会場:モノ:ファクトリー(株式会社ナカダイ 前橋支店)
主催:モノ:ファクトリー
共催: Make: Japan(株式会社オライリー・ジャパン)
(企画制作、運営、記録映像制作)
http://youtu.be/NI76cR43VDA

○『アートの課題 多文化社会と新しいアートセンターの活動 僕らはいま一体どこに立っているんだろう?』
発行:トーキョーワンダーサイト
(カタログ編集)
http://www.tokyo-ws.org/archive/2011/09/post-125.shtml

2011年

12月

○「プラスチックの過去・現在・未来展~フェノール樹脂から100年そして未来へ~」
会場:科学技術館
主催:住友ベークライト株式会社
(展覧会制作マネジメント、広報)

○「Make: Tokyo Meeting07」
会場:東京工業大学
主催:株式会社オライリー・ジャパン
(イベント制作マネジメント、運営など)
http://www.oreilly.co.jp/mtm/07/

11月

○映像メディア学サミットLOOP-02
「マンガ・アニメの映像メディア学的再考~なぜマンガ・アニメは面白いのか~」
会場:東京藝術大学美術学部第一講義室
主催:東京藝術大学大学院映像研究科
(国際シンポジウム制作、運営、USTREAM配信、記録編集)
http://www.fnm.geidai.ac.jp/loop/

9月

○東京アートミーティング第2回
『建築、アートがつくりだす新しい環境―これからの”感じ”』展カタログ
発行:ACCESS 編集:東京都現代美術館、pad inc.
(編集協力)
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/129/#

8月

○AAF10周年特別企画 世界ネットワーク・プロジェクト国際シンポジウム in 東京
会場/主催:国際交流基金
(USTREAM配信)
http://www.ustream.tv/recorded/16785762

○「ICC キッズ・プログラム2011 トランス→スケール」
会場/主催:NTT インターコミュニケーション・センター
(展覧会制作マネージメント、広報、ワークショップ企画制作など)
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2011/KidsProgram2011/

6月

○「アートアワードトーキョー丸の内2011」
会場:行幸地下ギャラリー(千代田区丸の内)
主催:アートアワードトーキョー丸の内実行委員会、特別協賛:三菱地所
(事務局運営)
http://www.artawardtokyo.jp/2011/

4月、5月

○平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震および一連の地震緊急調査報告会
会場/主催:日本建築学会
(USTREAM配信)

3月

○現代映像プロデュース論 2010
公開:東京藝術大学大学院映像研究科特設サイト
(記録編集)
http://c15v7i0v.securesites.net/pd2010/archive.html

2010年

12月

○メセナフォーラム2010 贈呈式
会場:東京商工会議所 東商ホール
主催:公益社団法人企業メセナ協議会
(USTREAM配信、開催記録スライドショー制作)
http://www.ustream.tv/recorded/11220299

○ポストカードブック『without records cards』(BCCKS)
著者:大友良英+青山泰知+伊藤トオル
(編集、発行)
http://bccks.jp/bcck/108249/info

withoutrecords

大友良英+青山泰知、写真:伊藤トオル「without records cards」

11月

○「Make: Tokyo Meeting06」
会場:東京工業大学
主催:株式会社オライリー・ジャパン
(イベント制作マネージメント、運営など)
http://www.oreilly.co.jp/mtm/06/

9月

○「Make: Ogaki Meeting」
会場:ソフトピアジャパンセンタービル(岐阜県大垣市)
主催:Make: Ogaki Meeting実行委員会
(展覧会制作マネジメント、運営など)
http://makeogakimtg.org/2010/

8月

○「ICC キッズ・プログラム2010 いったい何がきこえているんだろう」
NTT インターコミュニケーション・センター
(展覧会制作マネジメント、広報、ワークショップ企画制作など)
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2010/Kidsprogram2010/index_j.html
http://hive.ntticc.or.jp/contents/annual/2010J

写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]
撮影:木奥恵三

7月

○ヴェネチア・ビエンナーレ美術展 建築展 記者発表
会場/主催:国際交流基金
(USTREAM配信)
USTREAM「ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示」
http://www.ustream.tv/recorded/8307023
USTREAM「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の現場から」
http://www.ustream.tv/recorded/10045468

○あいちトリエンナーレ記者発表
会場:国際交流基金
主催:あいちトリエンナーレ実行委員会
(USTREAM配信)

5月

○「豪日メディアアートミーティング」
会場:名古屋市立美術館、国立国際美術館、IAMASほか
主催:豪日メディアアート・プログラム
(企画制作)
http://www.aujpmediaart.com/

○「Make: Tokyo Meeting05」
会場:東京工業大学
主催:株式会社オライリー・ジャパン
(イベント制作マネジメント、運営など)
http://www.oreilly.co.jp/mtm/05/
http://www.youtube.com/user/golightlyincv

4月

○「アートアワードトーキョー丸の内2010」
会場:行幸地下ギャラリー(千代田区丸の内)
主催:アートアワードトーキョー丸の内実行委員会、特別協賛:三菱地所
(事務局運営)
http://www.artawardtokyo.jp/2010/

3月

○『アートの課題 多文化社会と新しいアートセンターの活動 New Commons』
発行:トーキョーワンダーサイト
(カタログ編集)
http://www.tokyo-ws.org/archive/2009/11/on-the-agenda-of-the-arts.shtml

○映像メディア学サミットLOOP-01
「SEEN/UNSEEN 予見あるいは未見のこと」
会場:東京藝術大学美術学部第一講義室
主催:東京藝術大学大学院映像研究科
(国際シンポジウム制作、運営、USTREAM配信、記録編集)
http://www.fnm.geidai.ac.jp/loop/01/
http://www.ustream.tv/channel/loop-001

デザインは大岡寛典

その他の活動

2011年~

プロジェクトFUKUSHIMA!
http://www.pj-fukushima.jp/
TohokuCraft
https://sites.google.com/site/tohokucraft/

会社設立までのそれぞれの仕事

メンバーの坂口千秋(s)福田幹(f)は、いままでこんな方々とこんな仕事をしてきました。ゴーライトリー設立までの歴史です。

1988

株式会社UPUに入社。『Esquire日本版』、『GS』などの出版を手がけ、社長を社員投票で選出、という変わったニューアカ系?ベンチャー企業の大阪支社で企業の会社案内や大卒採用のリーフレットなどをつくる仕事に就く。 曲者だらけの会社で間違った社会人としてのいろはを学び「動議します!」「総括」という言葉もここで初めて覚えた。(s)

雑誌『WAVE』の奥付に載っていたボランティアスタッフ募集の案内を見て、ペヨトル工房へ。たぶん2ヶ月くらいの間、編集部やそのとき今野さんがやっていたクロソフスキーの芝居の準備の雑用係をやってました。プランクの中島浩さん、木村重樹さんが編集部にいらっしゃった頃。はじめてワープロ(!)の打ち方や校正のやり方を教わった。一階の喫茶店が「セリーヌ」という名前だったことに、いたく感動していた純真な時代。(f)

1989

勅使川原三郎さんをテーマにした論文で多摩美術大学芸術学科プロデュース専攻を卒業。
JAGDA(社団法人日本グラフィックデザイナー協会)事務局の広報担当として、社会人デビュー。このとき世の中はMS-DOS時代だったのですが、JAGDAがいち早くDTPを会報にとりいれたおかげで、Macユーザーとしてもデビューしました。ソフトは確かPagemaker2.0だったかな。版下からDTPへと移行する黎明期に、超大物デザイナーの方々のなかで現場も体験できました。いろんなイベントも、まるで断崖絶壁から突き落とされるような感覚でどうにかこうにかなんとかかんとかやってた日々。社団法人という穏やかな響きからは想像できないほどのたくさんの事業があり、しかもスタッフも少なく、新入社員とは思えない重責で、2ヶ月目に「私、もう辞めます」宣言。とか言いつつ、結局一年2ヶ月在籍しました。(f)

1990

この頃UPUにMacが導入され、入稿作業が本格的に写植からDTPへ。 マッキントッシュ128Kだったか。テトリスとかでよく遊んでた。 DTPへの移行で職人気質の印刷屋さんがとても苦労していた。この頃つくった入社案内で、シャープの液晶を手がけるホシデンという会社が、未来の夢の技術のひとつに「液晶壁掛けテレビ」を謳っていた。今すごい儲かってるんだろうなー。(s)

ヨーロッパに数ヶ月バケーション(放浪)の後、都市デザイン研究所へ。編集部門のボスだった荻原富雄さんは元UPU社員で、『GS』の編集者。(ここで私は「決起集会」という言葉を覚えました)大学時代の恩師、伊藤俊治さんがNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)のコミッティだったことで、日本で最初のメディアアートセンターの基本計画を作るプロジェクトに関わらせていただきました。研究会で、椹木野衣さんや上野俊哉さん、桂英史さんなど、活躍する若手(当時)の研究者の尖ったお話に脳みそが浸かっていました。
飯沢耕太郎さん、
谷口雅さん、北島敬三さん、古屋誠一さん、伊奈英次さん、澤田陽子さん(OSIRIS)などたくさんの写真関係者にもお会いしました。パリやアルルやロッテルダムの写真フェスティバルにも行き、たーーーくさんの写真を見た見た。おいしいワインも飲んだ飲んだ。(f)

1991

会社はとりあえず3年でやめよう、とUPUを退社。さらに「小学生の頃吉本を見るために走って家へ帰ってた」、という大阪のノリとツッコミについていけずに大阪にも挫折。知り合い10人いれば一生食っていけそうな地方独特の人間関係も苦手だった。特に仕事にもつかず、定住場所もなく、友人宅を転々として気づいたら8ヶ月ほどたっていた。(s)

1992

バンコクへ片道切符で飛び、バックパッカーのまねごとをしながらアジア各地で無駄な日々を過ごす。友達、通りすがりの人、いろんな人に世話になった。このご恩は一生忘れません。バンコクからイギリスへ渡り、語学学校のホームステイに潜り込んで夏を過ごす。「アーティスト」と名乗る人に初めて出会ったのもこの頃。 スミス、ハッピーマンデーズなど暗いUKロックを聞きながら羊と丘と雨だらけのスコットランドを旅して回り、さいはてのOakneyという島で初めてヒッチハイク。 アートとはなんのゆかりもなかった頃だが、なにかの兆しはあったかもしれない。(s)

また数ヶ月の欧州バケーション。前回はイタリアやスペインに行ったので、このときはドイツ、ベルギー、オランダとか。あ、最初の一ヶ月エクサンプロバンスで語学研修してました。(f)

第2回NiCaf(アートフェア)の関連企画でコーポレートアートの特集があり、半年間、白石コンテンポラリーアート(SCAI)の瀬川律子さんのもとで編集のバイトをしてました。まだ谷中に移る前の青山にオフィスがあった頃で、小山登美夫さんが村上隆さん、中村政人さんを新人アーティストとして売り出していました。(f)

イギリスも寒いし、いいかげん定住しようと帰国。所沢に小さなアパートを借り、日銭稼ぎにfrom Aの求人情報でギャラリーのバイト募集に応募。理由は朝が遅いことと、アートのことは何も知らなかったから。面接で「君UPUにいたの?」と言われ、聞けばオーナーは学生時代にUPUの上司といっしょに火炎瓶を投げていた学生運動の同志だったという。履歴書の一行に逃れられない運命を感じ、そのままギャラリーで働くことに。 ここから現代美術の世界へ。 このオーナーが三潴末雄氏。のちに表参道へ移転し、ミヅマアートギャラリーと名称変更。(s)

1993

ICC基本計画をやってたとき、お世話になったプロデューサーの乾義和さんが、伊藤ガビンさん、船田戦闘機さんと会社を作るというので、おしかける。「謎の暗躍集団」という枕詞が今でも欠かせないボストーク株式会社(当時は有限会社)は、2時〜4時が就業時間でその後はビールというのが社則でした。また、仕事中は無駄口をきかねばならない(それも親父ギャグ)とか、同じ種類の仕事は二度やるなとか、新しいソフトは仕事を受けてから覚えろとか、いろいろあったなあ。打ち合わせに来た編集者が、「この会社で話されている会話は普通じゃない。怖くて(会話に)入れない」と言っていたとか。よほど恐ろしい陰謀が企まれていたに違いないですね。覚えていませんが。
表向きの仕事は、ICCのプレオープン・イベントでジェフリー・ショーさん、マット・マリカンさんらを招聘した「メディア・パサージュ」展のマネージメント。現2DKのデヴィッド・デヒーリさんとは、このとき初めてお仕事しました。(f)

バブル崩壊後のどん底のアート界で主に店番とプレスをやっていた。作家と話をするのは面白かったけれど、どうも業界にはなじめなかった。(s)

1994

同じくICCのプレイベントで藤幡正樹さんの「生け捕られた速度」展に関わり、そのときの慶応SFC藤幡研の学生さんたちとは今でも青春を一緒に過ごした同期生のようです(ちょっとおこがましいですね)。グラフィックデザインは東泉一郎さん。藤幡さんにメディアアートや作ることで思考が変化していくことの面白さを教えていただきました。このときの体験が、今、メディアアートの仕事をするときの根っこになっていると思います。(f)

この年のコンテンポラリーアートフェアNICAFでロンドンのギャラリーオーナーから一冊の本を預かった。いろんな廃墟の壁にパステルでドローイングを残して撮影したイギリスのDavid Tremlettという作家のカタログで、開いて身震いした。自分が旅して感じたものがそこにあった。そんなことがアートにできるのか!翌年トレムレットの個展をミヅマでやるというので、なにがなんでもいっしょにやりたいと思った。アートが自分にとってとても重要なものになった出来事。(s)

表参道のギャラリーが集まり街を舞台にしたアートフェスティバルをやろうという話が持ち上がり、いいだしっぺのミヅマとAKI-EXギャラリーが事務局に。そこでAKI-EXのスタッフの荒谷智子さんと知り合い、同年代のアーティストやギャラリースタッフをたくさん紹介され、荒谷さんのおかげでアート界がぐっと身近に。街を使ったアートイベントは、このころかなり先端をいっていたが、同時にいろんな問題点もすでに明らかになっていた。(s)

1995

暗黒体験は、セガサターンのゲームソフト「風水先生」の開発。監修は荒俣宏さん、ゲームデザインは伊藤ガビンさん。風水関係のいろんな本を読みあさったり、風水師にヒアリングしたり、香港行ったり、いろいろした結果、風水の基本は「掃除」だということがわかりました。このころ、江渡浩一郎さんや辛酸なめ子さんとも一緒に仕事をさせていただきました。(辛酸なめ子さんはなんと「風水先生」の3Dモデラーをしてたのだった)ゲームのプロジェクト・マネージメントというものを初めてやり、駅から会社まで歩く途中、信号待ちで寝るという技の開発も。江渡さんからは、HTMLのタグの書き方を教わりました。まだDreamweaverとかなくて、すべてタイピング。メインプログラマでおたく中のおたくとして元A社で有名だった五十嵐久和さんと、晩ご飯の後によくバーチャ・ファイターしてたな。もちろん勝てませんが。マンガをあんな量読む人はいまだに知りません。(f)

トレムレットの展覧会をミヅマとSCAI THE BATHHOUSEと合同で開催。それを区切りにミヅマを退職し、アメリカ、ヨーロッパの美術館を半年ほど回る。トレムレットの本の表紙にあったテキサスとメキシコの国境沿いの廃墟を訪ねて手書きの地図を頼りにサボテン砂漠をレンタカーでひたすら南下した。途中、 降るような星空を寝ぼけて本当にUFOだ!と思った。リオグランデ川の向こう岸で馬を洗う少年と眼があった。 廃墟のドローイングは色あせていたがそこに残っていた。でもそこにあろうがなかろうがどっちでもよくなっていた。かえり道、 マーファでドナルド・ジャッドのチナティを訪れようとするが道に迷ってあっさりあきらめた。(s)

1996

SCAI THE BATHHOUSEから独立した小山さんの小山登美夫ギャラリーのオープンを手伝う。村上隆、奈良美智、杉戸洋らをリスクを背負いながら世に送り出していく小山さんをすごいなーと思いつつも、売り買いに興味が持てず、ギャラリーから足を洗おうと決心。結局半年ほど働いた。(s)

船田戦闘機さん とは、ICCの電子図書館、大手町の逓信博物館の展示品データベースを開発。
その後、船
田さんを師匠(命綱)にして、某発電所の見学者向けソフトを一本自力でプログラミングしてみました。このときLingoを学び、やはりプログラミングは数学が必須という基本中の基本が骨身にしみました。師匠から、仕事をすることは自分の弱点を知ることと教わったことも忘れていません。(f)

マクミラン社グローヴ世界美術大辞典という書籍の日本事務所で33巻100万円という商品を全国美術館や図書館に300セット売った。そのかたわらで、表参道のアートイベント「モルフェ」でタイのナウィン・ラワンチャイクンのプロジェクトを手伝った。ナウィンは当時チェンマイソーシャルインスタレーションという街を使ったアートの主催者の一人で、街イベントの不思議な縁を感じた。(s)

1997

チェンマイでナウィンのお正月のイベントに参加し、リクリットに出会う。2人のゆるいおおらかな人を巻き込んだイベントにいたく感動し、私もなにかしなければと思い、ドキュメントを書く。これがアートについて書いた最初。そのあとベトナムで、道ばたにいすを並べただけのカフェに触発され、東京で移動式カフェ「モイカフェ」を海田麻衣子さんと始める。アジア的なゆるくて手作りでストリートな感覚が「私はアートのために何ができるか」と悩んでいた自分に「やりたいことやればいいじゃん」という答えを与えてくれた。(s)

強者ぞろいのボストーク社のなかで、自分の未熟さを痛感。修行としてフリーランスで仕事することに。
インディペンデントな写真展として、写真雑誌「デジャ・ヴュ」の編集をやっていた三田美樹さんと「写真の円環」展(小泉美和)を企画。

ICCに最初に関わって実に7年、この年ついにオープンしたときは感無量。(f)

荒谷智子さんの引き合わせで中村政人の「美術と教育」という本の編集を手伝う。キュレーターは窪田研二。「上野谷中アートリンク」を立ち上げた年。朝から晩までインタビューで駆け回り、それがきっかけで、都内に活動拠点をつくろうという話に。単なる共同事務所ではなく、各地のアーティストたちのハブとなるような場所をイメージし、御徒町のアメ横の魚屋の地下倉庫を借りてスタート。グループ名はコマンドN。創設メンバーはほかに関ひろ子さんと、鈴木真吾さん。(s)

1998

このころ、御徒町のcommandNでアートプロデューサーの関ひろ子さんが、坂口、福田をひきあわせる。(s, f)

ICCオープン一周年記念の「移動する聖地」展で、乾さんとまたお仕事。空間デザインは西沢大良さん、グラフィックデザインは独立したばかりの佐藤直樹さん(当時はソイグラフィカ)。
この頃は世の中にホームページがあふれてきた最初の頃。なので、こんな私でもちょこっとCGIとかJava Scriptとか書いて、ホームページの開発で糊口をしのいでました。この頃やっていたのは、在日フランス商工会議所のホームページ。編集長は小崎哲哉さん、ADは佐藤直樹さん。技術的なことで行き詰まると、よくexonemoの赤岩やえさんに助けてもらっていました。
谷口雅さんと「写真の仕草」展(安彦さちえ、市川美幸、金子亜矢子、小泉美和、鈴木理策、原美樹子、保井登久子、吉野英理香、吉村朗)を企画したり。(f)

自力の改装工事を経てコマンドNの活動開始。1Fのギャラリーと地下でのトークイベントのほかに、秋葉原を舞台にしたビデオインスタレーション「秋葉原TV」を中村さんが企画し、秋頃から本格的に準備を始める。コマンドNを訪れるアーティストやいろんな人たちと交流が活発になり、ギャラリー以外の居場所を見つけた感じがした。 アーティストのアイデアが閃く瞬間に立ち会い、一からことを立ち上げるパワーにおおいに刺激された。同時に立場の違いから衝突もしたことでアーティストが抱える葛藤や悩みも痛感した。 多くのことを現場で学んでいった。(s)

1999

3月に開催した秋葉原TVが反響を呼び、コマンドNの活動が本格化。家賃光熱費すべての経費は自腹ゆえ、いくつも細かいバイトをこなしながら、なんとか生きてた不思議。アートライターの仕事もぼちぼち始めた頃。NHKラジオジャパンの中東アフリカセクションのスワヒリ語チームでラジオ番組の制作アルバイト。この頃コマンドNのメンバーに阿部一直さん、四方幸子さん、堀元彰さんの3人が加わった。(s)

桝山寛さん企画で、ADはサルブルネイ松本弦人さんの『BIT GENERATION 2000』展のカタログ(水戸芸術館、神戸ファッション美術館)、小崎哲哉さんのアシスタントとして、『科学と芸術の対話 マルチメディア社会と変容する 文化1・2』(NTT出版)などを編集。(f)

2000

都市デザイン研究所時代の同僚と新宿大久保界隈エスニック料理食べ歩きサイト「エスニック・パラダイス(エスパラ)」を開始。当初は大久保界隈だけだったのが、そのうち東京中を毎週食べ歩き、一年半で約70件のレストラン調査。二人で食べきれないときは、知人友人の胃袋も動員。南インドやラオスの人たちだけでやってる祭りにも潜入。未知の味、濃〜い人たち、知らない社会にたくさん出会えた。おりしもの韓国料理ブームにのって人気サイトに。本業が忙しくなりすぎたのと、韓国料理屋が増えすぎて調査が追いつかなくなったのとで、2001年に終了。(f)

千代田区街づくり振興会という部署の協賛を得て、 御徒町から秋葉原のど真ん中へコマンドNが移転。向かいが秋月電子というロケーションで第2回秋葉原TVを開催。この回から作品の完全デジタル納品をアーティストに義務づけた。アナログからデジタルへ、劇的なテクノロジーの転換期に沿って秋葉原TVも変化したが、それを押し進めたのは、秋葉原の店員たちの画質に対する厳しい注文だった。運営はオールボランティア。多くの学生たちやアーティストたちと協力しながら確実にイベント自体も成長した。(s)

日本科学未来館のオープニングスタッフとして就職。自然史博物館は大好きだけど先端科学の専門知識があるわけでもない私に求められたのは、メディアアートの手法で一般の人にはとっつきにくい先端科学技術を楽しく見せ、興味を開くこと。11月に毛利衛さんが館長に就任。就任演説に感動。最初は広報も展覧会の企画も両方やっていました。ロゴマーク(廣村正彰さん)や最初のホームページの企画など。(f)

2001

NPOという組織形態がアート業界にも出始め、公共的な要素が強くなってきたコマンドNの今後の方向性を巡ってメンバーの意見が揺れ始める。激しい討議を重ねたのち、「アーティストだけでやりたい」という言葉を受け、第3回秋葉原TVを最後に、アーティスト以外のメンバー関、坂口が抜ける。アーティストとの決裂はショックだったが早く別のことを始めようと、アートマガジン「VOID」を一人で編集発行していた柘植響を誘って、オルタナティブなバイリンガルアートマガジン「VOID Chicken」を創刊。初回はクリスチャン・マークレーのインタビューでコピー配布。VOID Chickenは現在も継続中。(s)

キュレトリアル・スタッフとして最初の企画展「ロボット・ミーム ロボットは文化の遺伝子を運ぶか?」(藤幡正樹+銅金裕司、松井龍哉、山中俊治、北野宏明)を開催。この頃、HONDAのASIMOが大々的に脚光をあび、世の中はまさにロボットブーム。しかし、「ロボット・ミーム」展は世の中のロボットの展示会とは一線を画す、画期的なアート展でした。発足したばかりの国際ロボットデザイン委員会との共同企画で、ロボットと暮らす生活がいきなり現実化して、それに対してきちんとデザインの考え方を持たないといけないという強い意思と想像力が爆発した展覧会。吉岡徳仁さんの透明のロボットの型が700体並んだ壁面、パンフレットやチラシは祖父江慎さんという贅沢でなかなかない組み合わせ。未来館最初の企画展でとても苦労したけれど、反響も大きく達成感を感じました。(f)

2002

「ロボット・ミーム」展のすぐ後に、未来館に入ってきたばかりの内田まほろさんと「ミクロの不思議な世界展〜電子顕微鏡で見るユニバソロジの風景〜」(医学生物学電子顕微鏡技術学会との共同企画)を開催。私にとっては、チャールズ&レイ・イームズの「パワーズ・オブ・テン」を盛り込んでみたつもり。グラフィックデザインは松田正行さんにお願いしました。未来館の正面の階段をあがったところに、マクロファージの写真を使ったどでかいバナーを提示。とてもインパクトのある光景でした。(f)

北海道帯広競馬場での夏のアートイベント「デメーテル」の制作スタッフとして北海道に4ヶ月滞在。自然の脅威に負けてどんどん壊れていくアートを目の当たりにしながら日々メンテを続けるサバイバルな展覧会で、ずいぶんたくましくなった気がする。P3とも初めて仕事した。なにか同じ匂いを感じる人々。このころからVOID Chickenのメルマガ版を配信月一回開始。(s)

未来館を退職後、9カ月間、ロンドンに滞在。ハマースミスの町で暮らした最初の2ヶ月で、脳みそのしわの隅々までデトックス。夏が過ぎていろんな意味で真逆のイーストエンドに引っ越す。時はイラク戦争前。日本にいたら体験できなかったであろう緊張と興奮、ロンドン市民(多くの移民を含めて)が抱いている危機感と世界市民意識を身を持って感じました。バングラデシュから来た若いムスリムの一家が住むカウンシルアパートに間借りして、イスラム教と言ってもいろいろあるんだーというのを知る。暗く重くうつうつとした冬を、カムデンマーケットに稲山奈々子さんと善哉Barを出して乗り切り、春になってお金が尽きて帰国。(f)

2003

デメーテルに参加していたドイツのヴィンター&ホルベルトの作品見にベルギーの小さな浜辺を訪ねた。列車の中で、かつてテキサスへ廃墟のウォールドローイングを見に行ったときと同じ、なにかに強くひかれていく矢印の力を感じた。ここに自分なりのアートの意味があるような気がして、翌年スタジオボイスのアートと旅特集にそんな話を書いた。(s)

11月に開館する山口情報芸術センター(YCAM)のオープニング・プロジェクト「Amodal Suspension」にで外部スタッフとして参加。(s, f)

「Amodal Suspension」のプロダクション・マネージャーとして仕事をしました。アーティストのラファエル・ロサノ=ヘメルからチームを盛り上げ、スタッフから120%の能力をどう喜びとともに引き出すかを教わった。いや、真似しようったってなかなかできないですけども。彼のプロデューサーとしての手腕は凄い。(f)

秋には山口情報芸術センターYCAMのオープニングプロジェクト「Amodal Suspension」の県外広報を担当。とてもすばらしいチームに関わった。確かこの年雑誌『ARTiT』が創刊。最初の2、3号まで編集に携わった。(s)

2004

岐阜県のメディアアートの学校IAMASのメディア文化センターの講師に。この年の夏に、オーストリアのアルス・エレクトロニカ・フェスティバルで開催したIAMASのキャンパス展示が評判よく、それ以降、海外から視察に来るお客様が急増しました。翌年あたりから、私も海外のシンポジウムなどで日本のメディアアートについてお話する機会が少しずつ増えました。(f)

金沢21世紀美術館の開館記念展スタッフとして金沢に9ヶ月滞在。YCAMに引き続き新しい館の立ち上げに関わった。開館後はエルネスト・ネトの作品のストッキングの穴の修復に日々を費やした。その美術館の脇で、ヤノベケンジとその仲間たちが隠密にジャイアントトらやんを制作していた。(s)

2005

「プロジェクト」と呼ばれるIAMASならではのプラクティカルな研究開発の授業のひとつとして、ICCの四方幸子さん企画の「MobLab:メディアキャンプ2005」 の情報システムの開発をする。MobLabでは、ドイツからシュテファン・リーケルス、AGF、スヴェン、日本からexonemo、古舘健+石田大祐が河村陽介のバス型ミュージアムmobiumに乗り込み、仙台から山口まで移動しながらパフォーマンスをしたり、展示をしたり、ライブをしたり。ドイツ側のディレクターは、その 頃transmedialeのディレクターだったアンドレアス・ブレックマン。exonemoのこのときの作品「The Road Movie」は翌年のアルス・エレクトロニカのネット・ヴィジョン部門のゴールデンニカを受賞。
IAMAS在籍中は、他にメディアアートのフリーライセンスの研究やプレゼンテーションについての授業なども。外部から講師を招く「メディア文化特論」も担当し、藤幡正樹さん、ダムタイプの高谷さんと泊さん、 山中俊治さん、八谷和彦さん、藤原大さんなどなどにはるばるお越しいただきました。
素晴らしい仕事をされている方々から、まさにお聞きしたいことドンピシャのとてもいい授業、学生の意識も高くていいキャッチボールができたと思います。(f)

横浜トリエンナーレ2005の芹沢チームのスタッフ。ディレクターは川俣正。中華街のはずれに部屋を借りてはまっこ生活。現場では毎日なにかが起きており、事務所では毎日鍋と宴が催されていた。あれだけの規模の国際展であれだけむちゃくちゃできたのは、やはり川俣正というアーティストの行動力か。いいチームだったけれど、プロジェクトが終わったとたんに解散=失業という「すてねこ」の現実も味わった。この優秀なすてねこたちともっと楽しく働ける方法はないのか、など考え始めた頃。(s)

そうだ、IAMAS全体の広報もやっていたんだった。忘れられないのはタナカカツキさんに学生募集の広告で、トン子ちゃんとその仲間たちがIAMASめがけて押し寄せるイラストを描いていただいたこと。『ART iT』のメディアアート特集号の表2で、今までのクールでスマートな学校のイメージを打ち破った冒険的な広告でした。ADの佐藤直樹さんのアイデアです。そのときデジオが学内でも流行っていて、卒展のとき、タナカカツキさんにゲストとしても来て頂きました。
ちなみにこの『ART iT』の号で、アジア・パシフィック地域のメディアアートセンター、教育機関やフェスティバルについて紹介。その後、ヨーロッパやアメリカ等も含めた情報をwikiで更新しつつ公開しています。(f)

2006

宮島達男のデンバーミュージアムのパーマネントワークの制作で2ヶ月デンバーに滞在。人種、性別、職業、年齢が異なる80人の市民とワークショップを行うために、ラテン、ヨーロピアン、チャイニーズ、ミドルイースタン、ネイティブアメリカンなどいろんな「アメリカ人」と出会い、さまざまな考えの人々がアメリカを形成していることを痛感した。プロジェクト終了後、現地在住で元福田の同僚だったという若林弥生さんにつれられて砂漠のアートキャンプ「バーニングマン」へアメリカ大陸を車で横断して出かけた。サバイバルぎりぎりの自然環境の中で知恵と勇気と表現力を試される砂漠のアート祭り。いままでのスケール感をぶち破るすてきな経験に。(s)

3月、BankART Studio NYKで、IAMASの横浜出張展「はじまりの水-Source of Life」として、展示やライブ、ワークショップを行いました。高嶺格さん、クワクボリョウタさん、るさんちまんをはじめとする卒業生、現役生の作品でもって、ユニークな学校IAMASを紹介するというもの。私と同期のアカデミーの先生、小林茂さんのGainerの最初の学外ワークショップをやったのもこのイベントでした。グラフィック・デザインはロンドンからやってきたジェームス・ギブソンさん、空間デザインは入江経一さん。どちらもIAMASの大学院の先生。このときアーティスト・イン・レジデンスでIAMASに滞在していた福原志保さん、ゲオルグ・トレメルさんも展示とレクチャーをやってくれました。東京から離れていても、岐阜は人材豊富です。(f)

秋には「岐阜おおがきビエンナーレ2006」のマネージメント。このビエンナーレのキュレータは吉岡洋さんとグナラン・ナダラヤンさん。アジアのメディアアーティストを招聘して、意見情報交換するのもビエンナーレの大きな目的でした。ラックス・メディア・コレクティブやセオ・ヒョジョン、ジャムセン・ローなど。インドネシアから来ていたヴェンザ・クライストとパフォーマンスの準備中に激しく口論したのも今ではいい思い出。雨降って地かたまる。シンポジウムでは大阪から原久子さんにかけつけていただきました。(f)

2007

文化施設の現場に戻りたくなって、山口情報芸術センターに出戻り。アーティストとの共同制作するインターラボのマネージメントをすることに。戻ったときは坂本龍一さんと高谷史郎さんの「LIFE」展のオープニングの頃。この後の作品から、プロダクション・マネージャーとしてYCAMの滞在制作に関わりました。(f)

IAMAS退職後、それまで学外でやっていたメーリングリストを学外に広げることに。「approach_a」という名前で、主にメディアアートを教えている大学の学生、卒業生、先生たちに入ってもらいました。内容はメディアアートのコンペやイベント情報、国際的な求人案内など。現在も継続中。(f)

原久子さんとトーキョーワンダーサイト本郷で「Lab☆Motion」という展覧会を企画し、exonemo、assistant、トーチカの3ユニットを紹介。そのすぐあと、2005年の横トリに参加していたSOIのウィット・ピムカンチャナポン、木村和博さん、遠藤治郎さんと、東京都現代美術館での日タイ修好120周年記念展「Show Me Thai」をやる。それ以来すっかりタイにはまり、VOID Chickenではアピチャッポン・ウィーラセタクンのインタビュー号を発行。ゆるくて横断的なタイのクリエイティビティにはとてもひかれる。(s)

始まったばかりのラボの研修制度で、前年韓国のテジョンのシンポジウムによばれたときに出会ったKAISTの大学院生スージン・リーを招聘。彼女が日本語を覚えるのは早かった!
白井剛さん、川口隆夫 さん、
藤本隆行さんの「true  / 本当のこと」、dNAの「Corpora in si(gh)te」、池田亮司さんの「datamatics」など、制作現場の面白さを堪能。(f)

2008

1〜4月まで「アートアワードトーキョー丸の内」というイベントを手伝う。フリーランスとなった窪田研二キュレーションの「赤坂アートフラワー08」と、金沢21世紀美術館での「プラットホーム」、街がらみのアートイベントが2つ重なり、金沢と東京を行ったり来たりするが破綻。金沢チームから外れ、個人で受けられる仕事の限界を知る。11月、タイの「ファットフェスティバル」というインディー音楽フェスにトーチカが呼ばれたので、またタイへ出かけた。(s)

夏から秋にかけて行われた大プロジェクト「大友良英/ ENSEMBLES」では、アーティストとスタッフ全員が一丸となって作品に向かったこと、それが奇跡のような素晴らしい作品となり、エコーのように観客 から反応が返ってきたことなど、主催者側としてこのうえなく幸福な体験ができました。市民参加のプロジェクトってそうそう簡単なものじゃない。でも、何か新しい可能性がこのとき見えた気がしました。 中上級者エンジニア向け講座「InterLab Camp vol.1」でopenFrameworksをとりあげ、ザカリー・リーバーマン、テオドア・ワトソンを招聘しました。参加者も講師も主催者側も大満足、 充実の4日間。ワークショップはいい講師をよぶことだけではなく、素晴らしい参加者を集めることも重要。一方通行ではなく響き合いなのです。
インターラボでは伊藤隆之、三原聡一郎、大脇理智、丸尾隆一らと遊ぶ=仕事しながら、クリエイションと組織について考えていました。
「ミニマム インターフェース」展では、香港のmicrowave festivalで見たDaan RoosegaardeとreacTableを紹介。開館5周年記念シンポジウム「Platform for Future
を企画。YCAM近くの湯田温泉で開催されるパブリックアートプロジェクト「YUDA ART PROJECT」のロゴマークやサインを未来館のときにお世話になった前田豊さんにお願いする。前田さんは廣村デザイン事務所から独立して氏デザインを設立。このときのデザインで第43回SDA賞サインデザイン最優秀賞を受賞されました。(f)

2009

珍しいキノコ舞踊団、plaplaxによる初のコラボ・ダンス作品「The Rainy Table」の制作管理。フライヤーなどのデザインを伊藤ガビンさんのデザインユニットNNNNYに依頼。かわいいドット画が子供だけでなくおばあちゃんにも大ウケ。東京公演のチケットはソルドアウトで追加公演。
とにかくこの年は開館5周年記念で、イベントがてんこ盛りでした。2年しかいなったけど、5年くらいいた気分で退職、東京に出戻り。(f)

大友良英さんのENSEMBLES09実行委員会の事務局を中島ふみえさんと坂口、福田の3人でやることに(s, f)

馬喰横山のASYLに、「ENSEMBLES09」事務局兼会社設立準備用の机一個を置かせてもらいました。新しくオープンした原宿のVacantで、without recordsの09バージョンを展示。照明は高田政之さん、ENSEMBLES09全体のグラフィックデザインはASYL、ホームページはBOW
の後、私はヨコハマ国際映像祭の展示マネージメントの仕事に。映像祭では、ラボスペースの家具をpointの長岡勉さんに依頼。階段状の立体的な椅子(スタジアムのような)を提案していただきました。角度を違えてみると、まるで形が変わって見え、座る位置によって視界もまったく異なるという豊かな表情を持った面白い家具。
そんな合間に
Make: Tokyo Meeting0304のお手伝いも。Make: の世界にひきこんでくれたのは船田さん。(f)

大友良英さんの「ENSEMBLES09」の事務局を手伝い、主に旧練成中学校屋上での「休符だらけの音楽装置」展を担当。音の装置による空間インスタレーションという特殊な展示で、さらに天候などの不確定要素が加わって、毎日なにかが変化していった。台風に2度見舞われ、木枯らし一番にも吹かれ、最終日まで気のぬけない、でも底抜けに楽しい現場だった。ENSEMBLESという大友さんのコンセプトにも共感。(s)

CEATECで、MMBIのブースのインタクション映像展示をマネージメント。システムの制作はAITIAを退職してフリーランスになったばかりの國原秀洋くんと田中信雄くん。立場は違うけどみんなIAMASの同期。(f)

10月19日、株式会社ゴーライトリー設立。(s, f)

タイのラヨーンビーチでウィット、SOI、トーチカたちとぼけーっとだめ人間中に、HP原稿催促のメールが届き、あわててこれを書いている。先日はバンコクでウィットとジャンの結婚式に出席、パーティにはタイの主要なアーティストがこぞってお祝いにかけつけた。リクリットにも再会。干支でいうとちょうど一回りの12年目にまたタイであえてうれしい。あの年から私のアート人生が本当の意味でスタートし、そして今年ゴーライトリーができた。2010年は私たちの新たな1サイクルの始まりに違いない。タイのようにおおらかですてきな仲間たちと最高の仕事を楽しくできること。そしてすてきな矢印を持ったアーティストと出会うことが寅年の祈願。(s)